2025-06-13
息子の中学校の合唱コンクールに行きました。
あたたかい光に包まれた舞台。
神聖な場所に立つ子どもたちは、まだ幼さを残しながらも、確かに歩んできた時間を背負っているような、それぞれの「音の粒」が響きあう、躍動感のある光景でした。
最初の音が響いたとき、私は気がつきました。歌声には、それぞれの「声色」があるのだと。
そのどちらも欠けてはならず、どちらかが強すぎても、ハーモニーにはならない。
とりわけ、男性の声が確かに支えているとき、合唱は安定感をまとい、根の通ったハーモニーになるのです。
その力強さは、やはり不可欠なものだと、感じました。
指揮者の存在にも、心を奪われました。
指揮者はただ目立つためにいるのではなく、みんなの声の色を見極め、それをどのように束ね、どんな方向へ導くかを常に考えなくてはなりません。
自分に酔うことなく、知的に、そしてクールに舞台全体を見渡す、重厚感。
その背中には、静かなリーダーシップがあり、足元には、確かな方向性が感じられました。
伴奏者もまた、美しかった。
リズムを守るだけではなく、丁寧な強弱、表情のつけ方、余韻まで洗練されている。
その姿から、本来は歌を支えるべき伴奏者であるが、時に、歌声よりも主役になる瞬間があってもいいのではないか——
そのように思ったほどでした。
そして、気づいたことがあります。
それは、「聞いてください」という謙虚さと、「届けたい」という優しい思いがあるとき、合唱は人の心に深く届く、ということ。
一方で、「無敵だ! 絶対負けない! 優勝するぞ!」そんな気合いの言葉には、どこか押しつけがましさがありました。
まるでお腹いっぱいのときに、さらに何かを勧められるように感じられるような——でも、それもまた、中学生ならではの、美しい若さです。
とはいえ、静かに差し出される歌のほうが、ずっと強く響くことを知りました。
音のひとつひとつが粒となって、光のように弾けるとき、私の中に情景が浮かびました。
その景色は、まるで風に揺れる木々や、夕暮れの空のように、どこか懐かしくて、ああ、これが「美しい」と感じる心なんだ、と気づかせてくれました。
そして、ふと思ったのです。
人生も、こんなふうに「色をつけていく行為」なのだと。
どんなハーモニーを奏でるのか。それは、創造であり、それが、生きるということなのだと。
合唱コンクールで見たものは、ただの演奏ではありません。それは、ひとつの、彼らの人生でした。
「光」のように、「音」のように、「匂い」のように、静かに消えていくけれど、確かに心に残る風景。
押しつけがましくないのに胸に残る余韻は、せつなさと、あたたかさと、満たされる思いが、ありました。
そして、心に響いたあの歌——
「小さな手でできること」
「だれにでもできることがある」
小さな手でも、小さな声でも、響きあえば、その思いは確かに心に届きます。その姿には、ナニモノニモカエガタイ美しさがありました。
それはもう、彼らの祈りのようでした。小さな手でも、小さな声でも、誰かと響き合えば、確かに世界が変わるのだと。
私はその光景を見ました。
そして自分もまた、一人でいるときも、誰かといるときも、言葉に音や色を重ねていけるように——そんなふうに、生きていきたいと、静かに思ったのです。
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