2025-06-07
世の中には、「自己肯定感が低いんです」と語る人が、少なからずいる。
けれど、ふとした違和感を覚えることがある。
そう語る人ほど、「でも」「だって」と反論に熱心で、こちらの言葉には曖昧にうなずきながらも、実は耳を貸していない。
そして不思議なことに、こういう人たちは、意外とよく喋る。まるで、「私はこういう人間です」と、誰かに知ってほしいかのように。その行為を「相談」という体裁で差し出すのだ。
しかし、本当に自己肯定感が低い人は、もう少し静かで、誰にも言えずに、ことばの裏に潜んでいるようなものではないかと思う。
「自己肯定感が低い」と、あえて口に出せる時点で、それはすでに“強い自己主張”の表れなのかもしれない。あるいは、他人から得られる共感や承認を、無意識に欲している。
そう考えると、やはりそれは、おそらく——承認欲求、ではないか、と思うのだ。
彼らは、変わりたいわけではなく、ただ聞いてほしい。わかってほしい。共感してほしい。そうした思いが、いつの間にか相談のような形をして現れているだけだ。
「でも」「だって」と返す言葉は、自分の現状を守るための壁になる。相手の言葉やアドバイスを遮り、相談・解決など望んではいないようだ。
こういう人たちとの会話には、非常に大きな欠点がある。
それは、対話が成立しないということ。対話は、同じ目的に向かい、ともに理解をし合おうとする姿勢があってこそ成り立つもの。
少なくとも、変わる意思が必要だ。しかし彼らには、それがない。
承認欲求を満たすために、悩み相談という体裁で、自分の思いをぶつけているだけなのだから。
通常、何かを変えたいと願っている人は、素直な心で耳を澄ますものではないだろうか。しかし、「自己肯定感が低い」と語る人の多くは、耳を貸さない。
よって、何を伝えても届かない。
「相談されたからには何か応えねば」と、何とか建設的な対話に集中しようとすればするほど、消耗する。相談を受ける側の善意は、与えても何の意味も示さず、ただの時間と労力の無駄となる。
よって、このような人に出会ったら、アドバイスなんか無意味だ。その場から静かに立ち去るべきだ。
変わる気のない人の「相談」に付き合うことは、ただ、消耗するだけでなく、自分の誠実さや品格まですり減らしてしまうのだから。
哲学者バートランド・ラッセルは、愚かな議論は重要ではない、といった。
坂本龍馬は、議論に勝っても、相手の生き方は変えられぬ、といった。
老子は、意図せず、作為をしない、戦わずして勝つ、それを争わない徳といった。
つまり、「自己肯定感が低い」と言いながら承認を求め続ける人と、果てしない堂々巡りを続ける義務など、私たちにはないのだ。
ここで必要なのは、対人基準を持つことである。
聞く側にも、限界があっていい。こちらにも、「選ぶ自由」がある。
もし、何度も「自己肯定感が低い」とつぶやく癖があるなら、それはもしかすると、「誰かに受け止めてほしい」という気持ちが、かたちを変えて現れているのかもしれない。
それが悪いことだとは思わない。人には、そういう面が誰しもあるだろうから。
ただ、それを受け止めるかどうかは、“相談”に応じる側が決めてよいはずだ。
良いコミュニケーションとは、お互いに対話する相手を選び、心地よく幸せでいられる距離感を保つこと。
それは、関係を切り捨てることではなく、自分の心をすり減らさないための、静かで優しい選択だから。
さいたま市大宮区桜木町1丁目378番地 ビズコンフォート大宮西口ビル